祭司であることの意味
イエスのやり方でする
29/8/1996
アフリカ ムズズ1996年
特別ではないタイトル—-万人祭司
黙示録にはこう書かれています。イエスがわたしたちを買い戻し、王国とし、神に仕える祭司とした、と。(黙示録5章)わたしたち全員が祭司となろうとするなら、それにどんな意味があるか知る必要があります。わたしたちが、生活の中で神の御力を体験しようとするなら、生活に対する神の考えに賛同しなければなりません。イエスは言われました。「行きなさい、、、わたしがあなたと共にいる。」またこうも教えてくださいました。「わたしの思いを行いなさい、、、そうすれば命も力も与えます。」
長い間、キリスト教団は人を押しやってきました。それに数人が関わり、その人たちは押し上げられてきました。ですからほとんどの人は押しやられてきたのです。アメリカ、インド、ポーランド、ルーマニア、ブラジル、そのほか世界中で“ヒーロー”のクリスチャンと“低い”クリスチャンがいると聞きます。それは全くの間違いです。マタイ23章でイエスは十二弟子たちに「誰も“父”“先生”“師”と呼んではならない。」と言われました。皆さんは兄弟であり、父は同じです。本物のキリスト者たちの中にはイエスのほかに“ヒーロー”はいません。アーメンですか?
生きた供え物
神はなんらかの考えがあってわたしたちを祭司にしようとされます。祭司なら、霊的な供え物を神にします。あなたにはそうすることができます。神はそうしてほしいと考えています。それは“ヒーロー”に限ったことではありません。わたしたちみんなにそうして欲しいのです。霊的なささげ物をする――いろいろなささげ物があります。その一つとしての霊的なささげ物は生きた供え物として私たち自身をささげることだ、とパウロは言っています。イエス様はあなたの舌も目も耳も心も手も足も所有したいのです。みなさんは正義を行う道具としてのみ、自分の体の各器官を捧げることができます。または、罪、わがまま、うぬぼれ、誘惑、恐れなどに負けてしまうこともできます。しかし、みなさんが自分のすべての器官をささげ物として毎日イエスに差し出すことを望まれています。そうすれば祭司になれます。たいていの人が祭司になるこの最初の段階は知っています。――自分自身を供え物とすること。あまり多くの人がそうしている訳ではありませんが、たいていの人が知っています。みなさんそうされていますか?
人に仕え、互いに助け合いなさい
イエスの似姿に近づきなさい
あまり多くの人が意識していませんが、旧約聖書には祭司がはたすべき義務のもう一つの働きが書かれています。それは人に仕えることです。――ささげ物をするだけでなく、人に仕えるのです。旧約での祭司は、神を人のところへ連れて行きました。現在、新約では私たち全員が祭司です。あなたが本当にイエス様に従う者なら、あなたは祭司です。じっとして祭司職の人たちがすることを見ていないでください。私たちが祭司なのですから。心から自分が祭司だと信じますか。それなら人々を主の前に連れてきてください。神様と人を会わせるには2つ方法があります。一つは近隣の人たちにイエスについて語ることです。私たちはみんなが祭司ですから、みんなが近隣の人たちに友人に、家族に、イエスを会わせるのです。アーメンですか。
祭司ならイエス様と神の家族を会わせます。わたしたちはイエス様とその教えを人々に伝えるのです。ですが語る以外にも方法はあります。実際できそうな話をしましょう。もしあなたが祭司なら、イエスの似姿に近づけるように助力するはずです。わたしたちがイエスを心に思い描きどのようなお方なのか知っているなら、兄弟姉妹とイエス様との違いを見てください。私たちは祭司として両者が同じになるように、という目的をもって生きるのです。イエス様はわがままですか。わがままな兄弟姉妹はいますか。あなたが祭司ですから助けてあげてください。イエス様は怖がりですか。怖れの中にいる兄弟姉妹がいるなら助けてあげてください。イエス様は小さい子供をかわいがりましたか。次のように言われました。「小さい子供たちをわたしの所へ連れてきなさい。」?小さい子どもを愛さなかったり、気にかけない兄弟姉妹をみかけたら、改めるよう助けてあげてください。それこそ祭司の務めです。イエスの似姿に近づける助けをしてください。イエス様がもし結婚していたら、妻に腹を立てたり怒鳴ったでしょうか。イエス様がもし誰かの妻だったら、夫に対して怒ったりわがままを言ったりしたでしょうか。これらの質問の答えはわかっていますね。イエス様はあらゆることにおいてすばらしい方です!
あなたは祭司です。兄弟姉妹がイエスの似姿に近づけるよう助けなければなりません。これは非常に危険なことです。危ないことです。なぜか。それはあなたが自惚れているとか裁く人だ、と思う人がいるかもしれないからです。実際はそうではありません。あなたは神に招命された祭司なのです。自惚れたり裁いたりしないで、誰に対しても心から深い愛を持って接するべきです。けれども問題のある人に改めるよう要請する義務があります。イエス様の似姿に近づくようにすすめるべきです。わたしたちは、一人一人が神の祭司なのですが、その一人一人も問題を抱えています。イエス様と違うものがわたしたちの中にあります。みなさんは祭司だ、と信じますから、イエス様と違うものがわたしの人生にあるかどうか、みなさんに聞かなければなりません。わたしの人生を吟味し助力してもらえるようにみなさんを祭司として歓迎しなければなりません。わたしたちには強さがあり、互いを愛することができます。ですから、他人を愛を持って助けます。そして強さと謙遜を持って他人からの助けを受け入れ、自分の人生への助言を聞きます。教会は来るところではありません。教会は共に祭司である人たちの集まりです。日々イエスの似姿に近づこうとし、それを助け合う人の集まりが教会です。ただ集まってメッセージを聞くだけでは教会ではありません。日々他人を心から気遣う人が教会です。教会は神の御体と呼ばれています。もしイエスの似姿に近づく助けを互いに怠っているなら、神の一部ではありません。わたしたちは互いに助け合わねばなりません。
聖なる父、完全なる神に、私たちの目を開きこの地に住むあなたの子どもすべての目を開いてくださるように祈ります。聖なる神よ、祭司となる道を示してください。強さ、助け、知恵を与え、互いの人生に良い影響を与え合うことができますように。自分の人生への助言を、強さと謙遜を持って受け取ることができますように。あなたが必要です。あなたの教会になりたいと願っています。地獄の門をけり倒しあなたの偉大さへ向かって愛し合いたいのです。聖霊よ、助けたまえ。あなたの道をお教えください。早く変われるように助けてください。あなたを愛します。あなたの知恵を与えてください。あなたの宮は知恵で作られています。それを私たちも心から欲しいと願います。アーメン
問題を解決する
もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、まことにあなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。「マタイ18:15-20」
20節の内容は、教会に集まってみんなが喜んで賛美している所にイエスがおられる、ということだろうと思う人は多いでしょう。私たちはイエス様に讃えの歌を歌います。私たちの内側に平安が来て主の臨在を感じます。確かにそれは事実ですが、20節の内容はそれではありません。確かに、人が集まりそこにイエス様が来られる、という内容の箇所ですが、主が語られているのは賛美についてではなく、問題の解決法についてです。わたしたちはみな祭司で、イエスの似姿に近づけるように互いに助け合うなら、集まって互いの生活上のことを話す必要があります。私が自己中心になっているのをあなたが目にしたなら、わたしのところへ来てそれを言う必要があります。姉妹の誰かについて噂話を聞いたら、それを話さなければなりません。噂話は罪であり、イエス様は心を傷められます。噂話は中傷でありイエスご自身を傷つけます。これらのことは罪でイエス様の心を傷つけるのですから、祭司としてまたキリストの体の一部として、私たちは互いに助け合わねばなりません。
もし誰の罪を見たなら「彼一人の時に行く」(15節)ようにしなければならない、とイエス様は言われました。誰かを困らせたり辱めたりはしたくありません。愛を持ってイエスの似姿に近づいてほしいと願います。自己中心だったり、噂話をしている人は神の御声を聞くことができません。神の御声を聞いてほしいと願うゆえに助けなければなりません。自己中心だったり、うぬぼれていたり、中傷しても平気な人は神を愛せないし他人も愛せません。ですから祭司として、私たちはそういう人たちのところへ行ってイエスの似姿に近づけるよう助けなければなりません。そのとき、謙遜を持ってしなければなりません。私たちは指図するのではなく、生活上のすべてをイエスに捧げてほしいと足をつかんで乞うのです。
神との友情関係を持ってほしいと強く願います。しかし心の中に罪がある人は、神と友情関係を持つことはできません。ですから、私たちの師イエスは言われるのです。そのような人が一人の時に行きなさい、と。辱めたり困らせたりしてはいけません。愛するのです。行って助けるのです。あなたは祭司ですから、行く義務があります。
二人、三人が集まるなら…
イエスも共におられる!
物事が難しくても、イエス様は問題に対する答えを与えておられます。兄弟や姉妹の所へ謙遜を持って行き、助けようとした時「あっちへ行けよ、聞きたくない。」「裁かないで。大きなお世話よ。」と言われてもイエス様は答えをくださいます。あなたが間違っていることがあるかもしれませんね。それでもあなたが自分は正しい、と思うなら行く義務があります。やってみる義務があります。もしやってみるのを怖がるなら、祭司にはなれません。挑戦しないならイエス様を喜ばせることはできません。時には間違えることもあるでしょう。でもかまいません。そこから学ぶことがあるのですから。このような兄弟・姉妹の所へ行っても耳を貸してもらえないなら、助け手として2,3人連れて行くように、とイエス様は言われました。これは教会の弟子訓練に関する教えではなく、互いにどう助け合ったら良いかに関する教えです。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
「マタイ18:20」
このような兄弟・姉妹に話をするため2人3人と必要なとき、イエス様も共に来られます。2人3人と集まって神からの仕事をするとき、イエス様も来られます。この記述は礼拝に関するものではありません。イエスの似姿に近づこうと互いに助け合うことに関するものです。私たちがある兄弟または姉妹の所へ行っても、理解できない、とか気に食わない、と言って聞いてもらえないなら、ほかに2,3人連れて行きます。これはイエス様の命令です。聞いてもらえないなら、もう忘れて祈るだけにしなさい、とは言われませんでした。もし聞いてもらえないなら、2人か3人、信頼できる兄弟・姉妹を連れて行きなさい、そうすればわたしも共に行く、と言われました。主の御名によって主からの仕事をするなら助けに来てくださいます。2人3人と立会人が来ても、まだ耳を貸さないなら、一連のことを教会全体に話しなさい。もう一度言っておきます。これは「教会の弟子訓練」ではありません。これはすべての祭司が問題解決の助けとなるようにするにはどうしたらよいか、についてです。これはとても良いことです。
私たちのイエス様は計り知れないほど知恵のある方です。すばらしいカウンセラーですよね?互いに助けあおうとする祭司でいるには問題が多いと感じるなら、より多くの人に助けを求めるようにとイエス様は言われました。かりに私があなたの所へ行ってあなたの生活には罪があると思う、と言ったとしましょう。でもあなたは同意しない、という場合、間違っているのは私の方で、私が物事を正しく見ていないのかもしれない。2人か3人立会人として来てくれれば、間違っているのはわたしの方だ、と言ってくれるかもしれない。そうすれば勝者はイエス様で、だれもが成長することになります。これはあなたが祭司なら理解しなければならない非常に特別なことです。物事はいつもうまく運ぶわけではありませんが、強さと愛はいつも持っていなければなりません。うまくいかない時、イエスがこうしなさいと言われたように従わなければなりません。物事がうまくいかない時、他の人にも関わってもらって共にイエスの御声を聞かなければなりません。人が2人いれば、1人が正しい時もあります。時にはもう1人の方が正しい時もあります。時には2人とも正しいのに、それを他の人たちが理解しないこともあります。また時には2人ともが間違うこともあります。そんなとき、イエスの命令に従って2人3人と関わってもらえば、――そして全員がイエスの御声を聞き、大切にするなら――イエス様が問題を解決し、助けてくださいます。
すばらしい道具
偉大なる最高祭司は、主の祭司全員を助けてくださいます。ただ、物事を主の方法で行い、互いによく話すよう努めなければなりません。人を連れてきて話しをするのを怖がっていてはいけません。誰かが私たちと話しに来たなら、喜んで2人か3人加わってもらいましょう。わたしはイエスを愛し、真実を愛します。しかし同時に間違いも犯しやすい者です。助け手を求めるのは神の英知の表れです。2人3人と集まるならイエスも共に来られる、でしたね。
私たちは祭司として、これまで述べたことを考え実行するのは義務です。これは遊びではありません。うろうろしたり、互いにいつもおしゃべりしてお互いを傷つけあおうというのでももちろんありません。警官になろうという話でもありません。互いに愛し合って助け合おう、といっているのです。罪のあるところでは、神の声を聞く耳は閉じられています。罪のあるところでは、神を見る目は閉じています。ですから、祭司として私たちは互いに罪を取り除く助けをして、神を見聞きできるよう助け合わねばなりません。
イエス様はこれらの道具を道具箱の中に入れて私たちにくださいました。一対一では解決しない問題なら、解決の手段として他人に加わってもらうよう言われています。これは結婚生活でも同じです。もしわたしの妻が私に対して問題を感じているのに、わたしが耳を貸さないとします。そのような場合、妻に期待するのは、イエスに従って2人3人と、他人に関わってもらうようにすることです。イエス様は結婚生活がこの手段の例外だ、とは言われませんでした。イエス様は全ての信じる者にとって正しい手段だ、と言われました。そしてすべての祭司にとって正しいのです。もしわたしの妻が私の中に罪があるのを見つけているのに、わたしが耳を貸さないとします。彼女は2人3人と他人を連れてこなければなりません。私はそうして欲しいのです。イエス様を愛するからです。みなさんはいかがですか。今みなさんにチャレンジします。
刃を歓迎する…癒しのために
どんな時も刃は痛いです。ですが、イエス様は優れた医師ですから私たちを完全で強い者とするため、病巣を切り取られます。今お話していることが時には少し痛いかもしれません。にもかかわらずあなたがイエスの道に耳を傾け、謙遜で愛を持って行動するなら、主があなたを強く賢く全き者にしてくださいます。心と体の病んだ所をすべて癒してくださいます。主があなたの心に深い愛を注いでくださり、命を与えてくださるのです。あなたの内からあふれ出る生ける水の川とすべての理解を超えた平安が得られます。言葉では表せない喜びが与えられ主の勝利で満ち溢れます。永遠の生命力を与えられます。あなたがイエスの方法で物事をおこない、祭司であるなら、もはや普通の人ではありません。聖霊と知恵に満たされた者となります。しかし、罪を切り取るナイフを歓迎せねばなりません。たとえ痛んでも、そのようにされることを喜ばなければなりません。それこそイエスの弟子たる心得です。
誰でも建物の中に座って御言葉を聞くことはできます。しかしイエス様は私たちに祭司となれ、王となれ、と呼んでおられます。パウロはこう言ってコリントの信徒たちを非難しました。「あなた方の振る舞いは、主を知らない人たちと同じではないか。」神は私たちに天使さえ裁くように呼んでおられます。神はそのひとり子イエスと同様、命にあふれまた勝利に力にあふれた者となりなさいと呼んでおられます。ですから罪を切り取る刃を歓迎せねばなりません。自分自身のために、また教会全体のためにこれら一連のことを経験し、助け合わねばなりません。これら一連のことはまさに現実となるべきものです。神は言われました。「わたしを試して見なさい。」イエスの方法に従い、イエスの似姿に近づけるよう助け合えば、神はあなたの心に祝福を注ぎこんでくださるでしょう。
捧げるために集う
祭司であるにあたって、理解せねばならないもう一つの役割があります。これまで話してきたことと比べれば小さいことかもしれません。自分を生きた供え物として捧げ、イエスを人々のところへ届け、その似姿に近づく助けとなるのです。他にも集会や集いに関係あることがあります。もし隣人を愛する生きた供え物として自分自身を捧げないとすれば、それから日々イエスの似姿に近づくよう助け合わないとすれば、集会や集いは無意味です。しかし祭司としてあなたがそのようにするなら、それこそ祭司のもう一つの役割です。
もしイエス様が実際に今この部屋におられるとしたら、時に完全に黙ってしまわれるかもしれません。しかしたいていは言うべき重要なことをお持ちでしょう。イエス様は今ここにおられます。あなたは祭司だ、と神がイエスの血潮にかけて(価値があるとか賢いとか強いとあなたが感じるからではなく)言われたのだから、それを信じる、と思うのなら、聖人たちみんなが集まるときもあなたは祭司です。イエス様があなたの内側に住んでおられ、洗礼を受けて主の内に、主の人生に、また主の御霊にはいっているのなら、あなたも神の御声を聞くことができます。祭司としてイエス様はあなたを通して語ることもできます。ただメッセージを聞いたり賛美したりしに来るだけではだめです。みんなと祈るだけではだめです。あなたが祭司であるなら、捧げるために集ってください。「へブル人への手紙」ではこう言っています。
「また、互いに勧めあって、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(へブル10:24-25)
この箇所は聖人たちが集まっているときのものです。始めの箇所は、互いに成長するにはどうしたらよいか考えるようにと言っています。「互いに勧めあって、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」ですから祭司として、そのような聖人たちとともにいかにわたしが、そしてあなたがどのようにささげたらよいか考えるために集まります。イエス様があなたに語って欲しいことを語る勇気をもたなければなりません。間違いを恐れてはいけません。もし間違えても成長の糧となります。また聖書のその箇所はこう続きます。「共にいることをやめてはいけません。」たびたび集う必要があります。「…そして主が来られる日が近づくならなおさらです。」イエス様が来られる日はますます近づいています。
ふりをしない
イエス様が激昂されたのはほんのいくつかのことに対してでした。そのひとつは偽善に対してでした。心では違うものを抱きながら行動するときはそれを偽っている人たちに対して非常に怒られました。それは過去も現在も同じです。心の中を偽って行動してはならないのです。兄弟とオープンに正直に話をして、その問題を解決する努力をしなければなりません。神は言われました。「互いの罪を告白し合いなさい。」告白して癒されるように祈りなさい。多くの人の心が霊的にも肉的にも非常に病んでいるのは、心を開いて互いに罪を告白しないからです。そうするのが怖い人たちばかりです。しかし神の家では怖がっていてはいけません。互いに愛し助け合う存在となるためです。噂話はしません。互いを拒絶しません。互いに助け合います。そうすれば互いの罪を自由に告白できます。悲しむことはあるでしょう。けれど、恐れません。イエス様が私たちを助け清めてくださいます。しかし、もし私たちが罪のないふりをするなら、私たちは偽善者になりイエス様は怒られます。過去も現在も偽善者に対しては怒られます。それはいやですよね?ならば心を開くのです。
賜物を埋めない
イエス様がお怒りになった人が別にもいました。自分の賜物を埋めてしまった人です。邪悪な召使とお呼びになり、外が暗いにもかかわらず放り出してしまわれました。ここでお伝えしたいのは、祭司として賜物を埋めてしまってはならない、ということです。神はみなさんお一人お一人の人生に特別な何かを与えておられます。あなたが祭司なら、神が与えておられるものを使ってください。たとえ話にでてくる男はお金を埋めてしまい、怖がっていました。イエス様は自分が与えられたものを埋めたことを苦々しく思われました。聖人たちが集まるとき、イエス様はただ座って話しを聞いて欲しいとは願っておられません。みなさんの内側に注がれているものを埋め込んで欲しくないのです。みなさんは祭司です。お一人おひとりみなさんが、与えられている賜物があれば語ることができる、と勇気と強さと神への信仰を持ってください。たとえ話の男のように怖がらないでください。
人をどう励ましたらよいか考えてみてください。あなたの伝道の対象が近所の人であり、信徒であり、あなた自身であるなら、聖人が集まるときも祭司として加わります。あなただけの歌を携えて喜んで加わってください。朝イエス様と祈っていたとき覚えた歌を他の人たちにも教えてあげてください。あなたが詩篇の中の一節を読んでいてそれにメロディーをつけて欲しいとイエス様に頼んでもいいかもしれません。祭司として聖人をみんな集めて、イエス様がくださった歌を教えてください。それこそ祭司の務めです。喜んでしてください。あなたの賜物を埋めないでください。
生活する中で罪について話にくる兄弟がいるかもしれません。よく聞いてあげてください。ナタンがダビデのところへ話しに来たとき、ダビデが心砕いたようにあなたも涙するかもしれません。神はナタンを——話にくる兄弟を——あなたの所へ送り、ある罪について語らせ、あなたの心を砕くかもしれません。あなたはイエス様にそのことを話し、それにかかわる聖書の違う箇所であれこれ考えます。それからあなたは聖人たちをみんな一所に集め、イエス様が教えてくださったことを語ります。あなたは学んだあと自分の人生が変わった箇所を示します。自分がいかに罪に落ち、いかに落ちないですむか教えます。神様があなたに示してくださったことを聖人たちに示すのです。それこそ祭司の務めです。あなたがたは祭司です。神様があなたの中でしておられることを持ってそれを兄弟・姉妹につまびらかにします。神はそれを願っておられます。私たちみんなにそうして欲しいと願っておられるのです。喜んでできますか?
ですからわたしたちはイエスの御名のもとに集まって耳を傾けるのです。イエス様は長く黙っていることはあまりなさいません。物事がとても長く静まったままなら、誰かあまり良くない祭司がいるということです。おそらくイエス様は歌を分かち合って欲しいと願われているのに、あなたは恐れているのでしょう。おそらくイエス様は朝読んだ私だけのための聖書の箇所を、わたしに読んで欲しいでしょう。でもわたしはこう考えます。「わたしではまだ十分ではありません。そのようなことはできません。」そしてその事は静まったままです。イエス様はわたしを使いたいのに私がそうさせません。私は自分の賜物を埋める決意をしました。イエス様が実際にここにおられたら、長く静まったままであることはないでしょう。なぜならイエス様が私たち一人一人の生活の中でなさりたいことは沢山あるからです。私たちが良い祭司なら、イエス様の言われることを聞くでしょう。イエス様は皆さんお一人お一人を用いられます。イエス様は喜んで仕える祭司全員を通して私たちみんなに語られます。みなさん喜んでやれますか?イエス様に用いていただきましょう。
すばらしい業をなされる
イエス様がある町へ行かれたときの事を思い出してください。イエス様はそこで奇跡をなさりたかったのですが、そこの人々に信仰がなかったためできませんでした。神様はみなさんの生活の中で奇跡をなさりたいのです。しかし、あなたに信仰がなければできません。心から神があなたを用いたいと思われていることを信じなければなりません。これらのことをイエス様に話さねばなりません。こう宣言してください。「信じます。不信仰をあなたが取り去ってください。」やわらかく謙遜な心をイエス様に求めてください。賜物を使う勇気が出せるようにイエス様に求めてください。自分が間違えることもあるので、うぬぼれを取り去ってくださいとイエス様に求めてください。私たちは助け合うことができます。賜物を埋めてしまうより、間違えたほうが良いのです。もしあなたが間違えたら私たちみんなが成長できます。しかし、もしあなたが賜物を埋めてしまったらイエス様はお怒りになります。ですから、より良い祭司になれるよう助けてください、とイエス様に求めてください。
わたしは、強い意志を持つ、とか良いメッセージを語る、ということを言っているのではありません。イエスに助けを求める、ということを言っているのです。イエス様は生きておられます。そして私たちの心の中に、また私たちの心を通して他の人たちにすばらしい業をしたいと願っておられます。しかしそのためには私たちがそう信じなければなりません。ですからイエス様に一連のことを話してください。あなたの頭の中だけで考えたり賛同したりしないでください。その代わり、生きて働かれるイエス様に一連のことを話して助けていただきましょう。主の栄光のために。
祭司として生きるよう要請する
あなたの近隣の人にとってはあなたが祭司なのですから、イエス様について学ぶ助けができるはずです。もしどこか違う教団に入っている人がいるなら、今いるところで祭司となるよう要請してください。周りにいる人たちにたいして自分の賜物を使うよう、要請してください。集会に行っても、ただ話しを聞くだけにしないよう頼んでください。周りの魂を見るように、そしてイエスの似姿に近づける助けとなれるよう言ってください。みんなが至る所でこのようにできれば世界は変わります。これは大きな力です。なぜなら私たちはイエス様をそのまま解き放っているのですから。もし私たちが祭司となるのを拒むなら、イエスはビンの壺の中に、本の中に留まり続けます。もし私たちが祭司となるなりイエスの名を身につけた他の人たちにも祭司となるよう求めるなら、イエス様はあらゆるところでイエス様ご自身が解き放たれます。私たちの住む村、町、国、そして大陸がすっかり変わります。イエス様は私たちが祭司となるとき、イエスたり得るのです。アーメンですか?
私たちがイエスを知って10年になります。教会のあり方や祭司のあり方、また祭司のなり方について学んだことはどんどん多くなっています。これらのことを学ぶとき、宗派についてはどうするか会得しておかねばならない状況になります。宗派に分かれた人たちだからといって、敵である訳ではありません。十分知らずにそこに入っている人もいるでしょう。もっとイエスについて知れば、よろこんで従うでしょうに。ですから宗派が違っても人を愛することが非常に大切です。私たちはおごらないように注意しなければなりません。神様が私たちのような乞食に少し食べ物をお与えになるとき、その食べ物を分け合いはしても、食べ物のない人たちを裁くことはないようにしたいのです。神にいただいた食べ物をすべて分け合う、それはイエス様のやり方です。食べ物を理由に分けるのではなく食べ物をどうぞ、と言い合うのです。
これらのことを心と魂でしっかり持つのはとても、とても大切です。なまぬるさや妥協は受け取りません。ただイエス様が主の教会を立ててくださると強く信じます。ですから、宗派に属してイエス様を本当に愛している人を見つけたら、「宗派から出てきなさい。」と言うべきではなく、「あなたの知人たちに仕えなさい。」と言ってあげるべきです。イエス様が私たちに教えておられるイエス様のやり方を教えてあげるのです。そしてそのやり方を、またその知人たちに教えてあげて欲しい、と伝えるのです。こうすると、多くの宗派で破門される人がでます。多くの宗派では神に従いたい思いがないからです。従いたい思いの人もいますが、従いたくない人もいるのです。
イエス様が立てられた本当の教会では、一人残らず神に従いたいと願い、一人残らずイエスを愛します。私たちはみんなが祭司ですから、お互いに助け合います。イエスを愛さない人がいれば、信徒たちは去ってしまいます。
Jeremiah 31 of New Testament Churchに予言がありました。「もっとも小さい者からもっとも大きい者まで、人々はみな私を知るだろう。」本当の教会なら、そこに集う人たちはみなイエスを知っています。ほとんどの宗派ではそうではありません。非常になまぬるい状態です。人々は世的なことを好み、罪の中に生き、変わっていません。ひどい状態です。悲しむべき有様です。同時にとても良い人たちもいます。私たちの仕事は宗派から出すことではありません。今いる所で祭司となれる助けをすることです。そうすれば、多くの人が変わり、自然と宗派から出されるでしょう。
イエス様は…..罪を追い出される
宗派に入っている兄弟・姉妹がイエスに近づくなら、その宗派自体が変わるか、その兄弟・姉妹を死なせてしまうか破門するでしょう(かつてイエスに対してしたように)。私たちは宗派を恐れません。宗派はまるであらゆる種類の魚を捕る大きな魚網のようです。その網にはとても良い魚もいれば大して良くない魚もいます。祭司としての私たちの仕事は、その良い魚をすべて呼び集め、今いる所で祭司となるよう伝えることです。そうすればそれぞれの所で物事が変わっていきます。
ニネベは変わったでしょうか。ヨナは魚の口から吐き出されてその恐ろしい町へ入っていきました。その町では罪があふれていましたが、町全体が、そしてそこの王さえ、神のゆえに変わりました。宗派の中でも神がこうされると信じなければなりません。ムズズでも神がこうされると信じなければなりません。ですから宗派に属する友人や知人がいたら、出てくるように言うのではなく、イエスのようになりたいと心から思って欲しい、と言うのです。会う人みんなに神の御言葉を伝えて欲しい、自分の生活を置いて人を愛し、妥協したり妥協を認めたりしないで欲しい、と言うのです。ニネベの人たちはヨナを殺すこともできました。彼は全く孤独でした。しかし人々は悔い改め変わりました。そしてそれが——私たちが祭司となり、一人一人が変わる助けとなることが——すべての宗派に対する私たちの思いです。宗派に属する知人に良い人たちがいます。助けとなりましょう。彼らに今いるところで祭司となり周りの人が変わる助けとなれるように、と伝えましょう。
私たちは多くの涙をながして宗派が変わるようにと神に請うこともあるでしょう。イエスも泣かれました。エルサレムのために涙を流されました。そしてこう言われました。「鳥がその子を集めるようにあなたがたを集めもしたのに。」しかしエルサレムはそれを願わず主を拒みました。主を殺したのです。私たちが忠実な祭司なら、私たちも殺されかねません。そうでなければ、町全体が変わるでしょう。そのためには私たちが忠実な祭司でなければなりません。知人たちに今いる所で忠実な祭司となるよう伝えなければなりません。その知人たちがそのまた知人たちを助けようとするなら、力を得て投げ出されるかもしれません。けれどもそれから後、周りの人を最初に助けようとしたのですから、同じ思いの信徒たちと共にいることができます。それが祭司のすることです。宗派に属す人たちを愛さなければなりません。それがイエスのされたことです。しかし妥協を受け入れはしません。私たちは真理を求めて生き、宗派に属している知人たちにも真理を求めて生きるよう求めなければなりません。みんながそうすれば、イエス様が御自分の教会を立ててくださいます。
これはイエス様のグッドニュースです。私たちは地域社会でも他の人たちのためにこのように生きなければなりません。妥協もなまぬるさもないです。ただ人を愛し助けようと努めるだけです。名前や宗派の違うからといって分離があってはなりません。分離が起こるのはイエスに従いたくない人がいるときだけです。私たちが行動を起こすまでどうなるかわかりません。宗派の名前がそこに属す人が悪い人だ、とかイエスに従いたいと思っていない、ということを表すのではありません。私たちが行動を起こすまでどうなのかわかりません。私たちはこんなふうに宗派とは付き合って行きましょう。自分たちの生活は彼らのために置いて、命のパンを渡すためにできるすべてのことをしなければなりません。彼らが自分の知人たちにも同じことをして欲しいと伝えなければなりません。その後はイエス様がそれをどう扱われるか見ていましょう。イエスはこう言われました。私たちが自分の仕事をしたら、後は主が御自分の教会を立ててくださり、地獄の門はもうその攻撃に耐えられない、と。私たちはサタンの町を攻撃し、その壁をはがし、その戸を打ち倒しています。そして人を愛し、暗闇から光の中へと導いています。名前で分離したりしません。人を愛します。命をかけて愛します。私たちが祭司の務めをし、神が御自分の教会を立ててくださいます。